戦争を生き抜いた唯一の戦艦 巨大で俊足「長門」が竣工した日

「世界のビッグ7」に数えられ、特に戦前に「世界最大最強」と称された旧日本海軍の戦艦「長門」が1920年の今日、竣工しました。日本の戦艦で唯一、太平洋戦争を生き抜いた「長門」は戦後、アメリカの核実験の標的にされました。
1920(大正9)年の11月25日。後の「大和」や「武蔵」のように「世界最大最強」の称号がついた旧日本海軍の戦艦「長門」が竣工しました。当時は大艦巨砲主義が最盛期を迎えていた時代。世界の海軍が、大きな船体に巨大な主砲を搭載した戦艦を競うように建造していました。
戦争を生き抜いた唯一の戦艦 巨大で俊足「長門」が竣工した日の画像はこちら >>1944年10月21日ブルネイ泊地にて。レイテ沖海戦に向かう前の戦艦「長門」(画像:アメリカ海軍)。
イギリスに学び最新の造船技術を身につけた日本は、常備排水量3万3800トン、41cm連装砲(対外的には16インチ、40.6cm)を8門搭載、最高速力26ノット=48.152km/h(同じく23ノット=42.596km/h)の「長門」を完成させました。巨大でありながら俊足と高スペックで、当時「世界最大最強」を誇りました。
「長門」は2番艦の「陸奥」やアメリカの「メリーランド」、イギリスの「ネルソン」などとともに「世界のビッグ7(世界7大戦艦)」に数えられます。ただ「長門」の登場が、世界初の軍縮条約となった「ワシントン海軍条約」締結のきっかけになったともいわれています。
竣工から3年後の1923(大正12)年9月1日、関東大震災が発生します。中国北東部の渤海湾で演習中だった「長門」をはじめとする連合艦隊はすぐさま救援物資を積載し、大災害に見舞われた東京に駆けつけました。「長門」は「日本の誇り」「日本海軍の象徴」として国民から親しまれ、最もなじみ深い戦艦となっていきました。

「長門」が本格的な戦線に参加するのは太平洋戦争からです。連合艦隊の旗艦として第一戦隊に所属し、開戦の契機となったハワイ・真珠湾への攻撃命令「ニイタカヤマノボレ1208」の暗号電文を打電したのはよく知られています。
1946年7月25日、ビキニ環礁での水爆実験。洋上に多数の艦艇が見える(画像:アメリカ海軍)。
しかしこの頃、「長門」を凌ぐ巨大戦艦「大和」が就役すると、旗艦の座を「大和」へ明け渡します。「長門」は1942(昭和17)年6月のミッドウェ―海戦後には第二戦隊へ移管され、以後は日本本土で待機することが多くなります。1944(昭和19)年10月にはレイテ沖海戦にも参加しますが大きな活躍はできず、以後人員輸送や給油活動が主な任務となりました。
そもそも1940年代にもなると、海戦の在り方は空からの攻撃を主体としたものに移行していました。「長門」には、巨大な主砲を活かし敵艦を撃沈するという当初から想定されていた戦果を挙げる機会は訪れなかったのです。
そして迎えた1945(昭和20)年8月の終戦。「長門」は空襲により中破してはいたものの、日本海軍で唯一生き残った(航行可能な)戦艦となりました。
戦後、「長門」はアメリカに接収されます。1946(昭和21)年3月、アメリカの核実験の標的艦となるため、「長門」はマーシャル諸島ビキニ環礁に向けて出港しました。
7月、アメリカの戦艦「ネバダ」や日本の軽巡洋艦「酒匂」などとともに被爆。2回にわたる大爆発を受けますが、「長門」の姿はなお洋上にあったとされます。
しかし翌日の夜、誰にも知られることなくひっそりと沈没しました。爆発の衝撃からゆっくりと浸水が広がっていたものと推定されています。翌朝、関係者が確認すると、すでに洋上に「長門」の姿はなかったそうです。
「長門」が沈む海は現在、沈没船が多いことから有名なダイビングスポットになっています。戦前に「世界のビッグ7」と称された戦艦は、海底とはいえ今も見られるのです。

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